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私の視点です。

すべては本当の自分に出会うため

今までの嫌な出来事、自分は不幸だと感じた体験、我慢し続けてきたこと。人生はそんなことの繰り返しで変わらない現状。

 

 

この世は、どれだけ自分を出して生きることができるかを試されていると思う。

 

 

本当の自分じゃない人生を生きているから、これでもか!これでもか!と、嫌な上司が登場したり、やりたくない仕事をまわされたり、仕事がしたいのに、仕事以外のこと(煩わしい人間関係)に悩まされることになる。

 

 

嫌だと思ったり、違和感を感じた自分に我慢をさせてきたということは、本当の自分を牢屋に閉じ込めているのと同じ。

 

親が子供に「我慢しなさい」などと言い続けて子供が否定され続けた結果とほとんど同じ。

 

自分の気持ちに対してOKを出せないから、人の顔色や評価によって仮の自分が造られていく。

自分には能力や価値がないと思いこんでいる人間が出来上がる。

 

 

それで満足なら、そういう人生でもいいでしょう。

 

しかし、今まで普通だと思っていたことに対して違和感を感じた場合。本当の自分に出会えるチャンスだと思う。

 

自分が認識している自分という人間は、自分の中のほんの一部でしかない。

自分が知らなかった自分に、私は出会った。ネガティブな出来事がきっかけ。

 

そう、ネガティブで知るうちは、自分のことをほとんど知っていない。

 

 

本当の自分を知っていくと、ポジティブな出来事から、自分を知ることができるようになる。こちらのほうが、心がかなり楽。

 

 

すべては本当の自分に出会うために起きている。誰が悪いわけではない。自分が自分のことを知らなすぎるだけなのだ。

 

 

 

 

 

 

ほとんど気にならなくなった

自分と全く合わない人、二人目に出会って3年ほど経ちました。

 

過去の1人は最初の職場の上司。話が通じませんでした。同じ言語を使っていたんですけどね。

 

2人目は今の職場に後から入ってきた人。やっぱり話が噛み合わない。視点が違いすぎるのか、通じたようで通じていない。さらに、多動により発生する騒音と、大声が苦手です。

 

大声すぎて、後ろから挨拶の声が聞こえても、自分が挨拶されてるのか、電話で挨拶しているのかわからない。いつも電話しています。そしてどの場所にいても、声量がほぼ変わらなく聞こえるってどういうことですか…笑

 

 

 

過去の職場の上司の時は、メンタルがボロボロになりながらも3年程我慢し続け、上司が異動となったことで救われました。

だが今回は、この程度で自分が辞めるわけにはいきません。自分の人生設計がありますからね。

 

 

直近の過去3年間、ずっとイライラしていました。毎日です。

仕事に集中したいのに、来るなり

荷物ドスっ!タイピングガチャガチャ…立ち上がる度にボコッ!と鳴る椅子……引き出しを開け閉めする度にガチャン!ガチャン!と響く音(古いデスクも悪い)、常に一体となって揺れ続けるデスクと棚とPC………

誰も喋ってないのに、とてもにぎやか(?)な事務所です笑

 

 

こんな人いるんだ…と思いつつ、私は隣の席でそれらを我慢し続ける毎日を送り、集中できずイライラも限界となりました。

会社に行くのもイヤになり、本当に参っていたので、上司に相談をして席を離してもらい、やっと救われたと思いました。

 

 

しかし、冷静に考えてみると

自分がそういったことでストレスを感じやすいタイプの上、その人は私にストレスを与えている自覚が微塵もなく、普段のその人というだけなのです。

どこでもそういう人物として存在する人。

 

なので私は別にその人のことを嫌いにならなくても良かったはずなのですが、私は、常に精神を攻撃をされている!と無意識に感じていました。

結局、合わないということです笑

 

 

その人が出勤してくると、心臓がドクッとなり、青ざめたことも何度もありました。

席が離れた後も、しばらくは無意識のうちに、敵だと思っていました。

 

 

 

音がうるさいままテレビが付いていると、自分の耳に最適な音量に変えたくなりませんか?

テレビは、音量を変えることができれば、イライラしないと思います。

 

他人の雑音や声量は、変えることができません。書くまでもないことですが。

なので耳栓を活用した時期もあったのですが、それでも内容がはっきりわかる声量で。

耳栓にも限界がありました。かくなるうえは、イヤーマフ…と思いましたが、仕事になりそうにないのでやめておくことに。

 

耳に入る音に敏感になってしまい、そこに注目(問題視)するようになってしまいました。

 

聞きたくないのに聞いている。

聞かされていると思っていました。

 

 

それが最近になって、ほぼ気にならなくなり、敵だとも思わなくなりました。

 

どうしてそうなったかというと

自分が注目するべき部分はそこではなく、別にあるということに気付きました。

 

雑音を問題視して解決したい、ということに、自分のエネルギー使うのはとてももったいない!と思ったからです。

 

 

今までは、攻撃されていると感じていたので

 

何でそんなムダに大声?

もう少し静かに動けないのか…

周りに配慮できないのか…

勘弁してくれ…

 

 

というように、攻撃(と思っていた相手の行動)から目を離せないだけでなく、配慮できないのか?という期待までしていました。

目をむけるほど、イライラするだけでした。

 

 

どうしたらよいかわからず、考え方を変えよう、自分を変えようと、色々と情報を読み漁りましたが、なかなかしっくりくるものがありませんでした。

 

 

私は現実に活かすことのできるスピリチュアルな話題が好きなのですが、ある日おすすめに上がってきた動画を見て

「自分の気分を良くする」

ということで現実が変わっていったという話を聴きました。

 

よし、今度はこれをやってみるか。

ということで。即実行です。

自分の気分を良くするためにできることは、一言で言えば、自分を大切にすること。

 

日々の食事に少し手間をかけ、良いものにしたり、自分が行きたいと思っていた場所へ旅行の計画を立てて宿を予約したり、なるべく人の少ない場所を歩いて(人から疲れたエネルギーをもらってしまうため)帰宅したり。

 

とにかく毎日自分に

「何が食べたい?」

「何がほしい?」

「行きたいところは?」

「どこを歩いて帰る?」

など希望を聞いて、それを叶えてやることを繰り返し、

 

眠い時は家事などやらずに寝かせてやり、

 

甘いものが欲しいときは食べるのを許してやり、

 

たまに体を動かして筋肉痛になりそうな時は、エプソムソルトをどばっと入れて入浴し、

 

仕事などで、こうすればよかった…と後悔したようなことがあったら、終わったことだ、仕方ない、次はやらなければ良い。と慰めてやり。

 

自分に厳しくすることを少しずつやめていくことで、気分を良くすることに努めました。

 

それですぐに効果が出たかというと、そうではなかったですが、

 

将来自分はこうありたい、という未来の理想が、レベルアップしていることに気付きました。

今まで思い描いていた未来よりも、更に嬉しい、楽しい未来を想像できるようになっていきました。

 

友人の結婚式へ参列した際も、「自分も幸せになっていいんだ」と思うことができ、

一度は着てみたい婚礼衣装を何にしようか、まだ予定もないのにワクワクしながら検索したりするようになりました。

 

 

心から感じる感情は、潜在意識に取り込まれやすいそうなので、

このようなワクワクが潜在意識に入ってしまえば、脳はワクワクすることしか探さなくなります。

 

少し前の自分は、イライラを潜在意識に取り込んでしまっていたのでしょうね。

 

 

イライラしていた相手のことが気にならなくなったということは、

ワクワクを潜在意識に取り込むことに成功したと言えると思います。

しかし、人間の脳はネガティブになることが大得意です。油断は禁物。

 

 

日々の過ごし方について

自分への厳しさに気付き、厳しさを辞め、自分に心地よく過ごしてもらうことで、自分の視点が変わりました。

 

 

このように現実の見方が変わったのは初めてだったので、私にとってとても大きな収穫だと思い、書かせて頂きました。

 

これからも、自分に心地よさを与え続けていくつもりです。

 

 

 

 

涙もろさの理由

最近、自分でも訳がわからない場面で涙がでてきたり

 

ちょっと感動しただけで涙もろくて、一体なぜ?と疑問に思っていました。

 

 

ついこの前、友人の結婚式に出席したのですが、その時も他の友人を差し置いて、真っ先に泣いていた自覚がありました笑

 

 

友人(新婦)の望みが叶って、本当に良かった~。今までの人生、本当にがんばってきたもんね~。晴れ姿を見ることができて、自分の事のように、嬉しい(号泣)

 

チャペルから出て来た新郎新婦を撮影しつつ、私の内側にはそんな想いがありました笑

 

そしてこの涙、結婚式が終っても出てくる!

 

布団に入ってやっと寝れると思いきや、止めどなく出る…

 

私は一体どうしちゃったのか…

 

本当に訳がわからないので、内観してみることにしました。

 

 

この涙は、100%が「友人への祝福」という想いからきているものなのかどうか。

それを自分に問いかけました。

 

 

時間がかかるかなと思っていましたが、答えは案外早く出て来ました。

 

 

上に「自分の事のように嬉しい」と書いていますが、まさしくこれがキーワードでした。

 

 

友人への祝福が50%、あとの50%は「自分への許し」でした。

 

 

自分の事のように嬉しい

という気持ちは、友人に自分を重ねている(自分と同じように大事に思っている)というところから来ていると思いました。

 

そうすると、

パートナーを見つけたことで念願叶い、花嫁になった友人のように

「私も幸せになっていい」

という事なんだなと

府に落ちました。

 

 

自分は幸せになってはいけない

なんて、そんなことを思った自覚はほとんど

ありませんでした。

 

しかし、私は過去に大きな失敗をして人を悲しませてしまったり、迷惑をかけてしまったことがありました。

 

この時から、自分に自信が無くなると同時に、「自分の幸せ」にも自信が無くなっていたのだと思います。

 

自分の奥深くにいる、もう1人の自分が、「幸せになって良い!」と許可を出していたようです。

 

 

 

人を悲しませてしまったから

「自分は幸せになれない」

 

そう思っていたら、そういう人生が続いていくのだと思います。

 

私の今までがそうでした。

自分の人生に納得したい

そう思って生きているけれど、

幸せになる許可を自分が出さない限り、納得のできない人生を死ぬまで生きることになるのですね。

 

 

冒頭で、涙もろいと書きましたが

ちょっとしたこと(たとえばドラマのワンシーンなど)で毎回泣くというのは、そこで何かを受け取っていたということなんだなと思いました。

 

ドラマのセリフが、愛を感じられるようなセリフだったら愛を受け取っているし、

ハッピーエンドのシーンだとしたら安心感を受け取っているかもしれません。

 

何かしら、自分に不足しているポジティブな意味を受け取っているから、自分の奥深くからのサインとして、涙が出てくるのだと思います。

 

涙もろいのは歳だなんて言いますが、

実は自分の人生が、本当の幸せへと向きはじめているという意味であり、予祝のようなものなのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

運転中の感情

歩行者は危険がいっぱいです。

なぜなら車を動かしているのは人間だからです。

 

 

一部の人間であってほしいと願いますが運転中の人間の脳は、

「自分が気持ちよく走る」

ということができないと、すぐに感情的になります。

 

 

運転中の人間は、基本的に前しか見えていません。(車のカメラは別として)この時点で、歩行者よりも視野が狭いのですが。

 

視野が狭いからこそ、見えている部分をすぐに感情と結びつけてしまう。もちろん、無意識的にです。

 

例えば

誰もいない(ように見える)道路を気持ちよく走っていた、あと少しで目的地。という時に、数百メートル先で歩行者が道を渡るのが見えた。ここで減速するのが普通です。しかし、感情に結びつけてしまうと、歩行者をあおるかのように、さらにスピードを出すか、減速しない。

これ、無意識にやってる人間沢山います。自殺行為であり、殺人未遂に近いです。自分のやってることに気付いてくれ。

 

他の車へのあおり行為や追跡行為なども同じです。

 

こういうことをやってると、遅かれ早かれ事故ります。なぜなら、視野が狭いうえに自分が優先だから。車は、瞬時に簡単に、殺人機となるとこを知らなすぎなのです。

 

毎日交通事故が起きていて、報道されていますが、自分には関係ないと思っていますでしょうか。

その考え、改めた方が身のためですよ。

 

 

歩行者は、基本的に車を信用しないほうがいいと思います。

 

ハンドルを握ると人が変わる、なんて笑い話がありましたが、だいたいの人間が「変わってる」と思います。笑えない事実です。

 

運転中の人間は、基本的に余裕がなくなります。歩行者だけでなく、運転操作をはじめ目的地までのルートや交通ルール、信号機、危険予知など、瞬時に判断しなければならないことが多く、意識的にも無意識的にもストレスフルです。だから感情的になりやすい。他のストレスが蓄積されている人間なら尚更、感情で運転してしまうというハメに。

 

だからといって、運転するなとは言いません。そんな権限はないですし、むしろご自由にどうぞという感じです。

 

私が言いたいのは、自分のやってること(自殺行為であり、殺人未遂に近い運転)に、気付いてくれ!というだけです。

 

本当に気づいてほしい人間に届かなかったりすると思うと残念なんですが。

 

 

もちろん、歩行者に自ら道を譲ることのできる、素晴らしいドライバーもいますが、その人も人間です。いつどこで感情が運転操作に繋がるかはわかりません。

 

 

この話をオーバーだと感じるドライバーは、自分の運転を過信しているということに気付いてください。

 

一時的な感情が、事故に繋がることのないよう、切に願います。

 

 

 

 

交通事故って

 あおり

逆走

突っ込み

無視

衝突

横転

居眠り

酒気帯び

 

 

 

 

 

毎日、毎月、毎年、

どこかで必ず起きていると思われる交通事故。

 

 

何で起きるのか。

それは人間が運転しているから。

 

 

人間は間違える生き物。

「間違える」ことが前提だったならば、

自動運転の車を最初から作っていたはず。

 

「絶対に」事故を起こさない人間はいない。

 

 

 

操作を間違えても車の制御機能のおかげで事故にならなかったり、

 

他の人間が避けたおかげで、「間違い」が無かったことになったり、

 

運転中に感情的になったり、スマホ操作をしても事故にならなかったりという事実はそこらじゅうにあると思うが、

 

そういったことについて、人間は自分が「間違った」という認識には一切ならない。

 

さらに

同乗者がいたとして、それをまじめに指摘する人間はどのくらいいるのだろう。

 

 

また運転手には責任があるが、その場の環境というのも事故の原因だったりする。

 

運転手が自ら危険な運転をして事故が起きる場合と、

事故が起きやすい環境、状況下で起こる事故とは別物だと思う。

 

そして、運転に於いては、人間の「注意力」というものは、自他共に信用するべきものではない。

 

 

人間は、自分が何に注意を向けているのかを、いちいち自覚しておらず、

注意を向けるべき対象が間違っている場合もあるからだ。

 

 

そして事故当時の状況は、運転手本人にしかわからない。

 

実況見聞をしたところで、同じ環境、状況を作り出すことはとても難しいと感じる。

 

何を隠そう、

私は事故に合ったことがある。

実況見聞の際、同じような状況を作って写真を撮ろうにも、次々と車が来てしまい、事故当時と同じような状況には全くならなかった。それでも警察は仕事だから写真をとるしかない。

私が見えていた景色とは全く違う写真が実況ということになった。

 

納得いくわけがなかったが、人間のやることなので、なかなか正確にというのは難しい。仕方がない。こういう世界なのだから。

 

 

 

毎日のように交通事故が報道されているが、報道によって知ることができるのは、起こった事実だけ。

 

事故の報道を聞いた人間ができることは、被害者や容疑者についてあれこれ想像を巡らせることではなく、

 

自分が事故を起こさないように、考えつく限りの努力をすることではなかろうか。

 

自分は絶対にこんな事故を起こさない、といった考えは捨てたほうがいい。

 

自分の運転を振り返り、運転する際は安全点検を怠らず、運転のみに集中する。

 

 

こんな文を読んでも

事故に合ったことの無い人達はピンとこないだろう。

 

それは

私もそうだったように

自分は事故に合ったことがない

=自分は事故とは無縁

という事実があるからだ。

 

自分は事故とは無縁

その事実は、未来に於いては有効ではないということに気付いていない。(ゴールド免許は過去の栄光だということ。)

 

 

未来は、自分の思考と行動と環境によって作られる。

思考も行動も環境も、変わらないものはない。確実に変わる。

 

事故と無縁の未来になるかどうかは、自分の思考と行動と環境で決まるという考え方ができる。

 

つまり、自分は事故とは無縁だった事実が、直接未来に繋がるわけではなく、

 

今後の、自分の思考と行動と環境によって、それが決まるということである。

ゴールド免許は、過去の栄光であって、事故を起こさない確率は、ゴールドでない免許を持つ人と、ほとんど同じと言っていいと思う。

 

 

 

 

事故の報道を見聞きしたらどうするかはその人間次第。

運転手だけでなく、歩行者にも同じことが言える。

 

「歩行者優先」

という言葉は、あって無いようなものだと、私は感じる。

 

なぜなら、人間は無意識に、常に自分が優先だから。

 

運転に於いては、自分の目の前に車や人が出てくると、自分が先に通りたがるという車が非常に多いと感じる。

そういった運転手は、視野がとても狭く、かつ感情的になっていると想像できる。

 

だから歩行者も、車が完全に止まるまでは、車の動きを信用してはいけない。

 

車は、歩行者に早く渡ってほしかったら、完全に止まること。

止まらずノロノロ動いていては、歩行者は安心して渡ることができない。

速度を落としただけでは、歩行者に道を譲っているとは言えない。

 

 

 

 

普段関係のない他人と

事故という悲しい出来事によって繋がってしまうことのないよう、

 

運転は単なる移動手段

という認識を捨ててほしい。

 

もう少し、運転することを

まじめに考えてみてほしい。

 

自分や家族のために、それをすることはとても難しいことなのだろうか。

 

 

 

 

生きやすさ②

自分を深く知ることが

生きやすさに繋がる。

 

 

私は今までの人生で最も大きな出来事に遭遇したが、それはとてもとても辛く、悲しい出来事だった。その時の心の傷は、なかなか癒えてはくれない。

 

その出来事の後、共通の友人を通して、大学時代のクラスメイトと再会した。

 

大学時代は挨拶を交わす程度で、深い話もしたことはなかったのだが、どうしてもその友人と話をしたくなり、繋がってもらった。

 

 

それから、その友人と頻繁に出かけるようになり、今度は深い話もするような仲になっていった。大学を卒業してから10年以上経っていた。

 

たくさん話をしているうちに、お互いに自分の素がでてきた。

友人が、悩みをそれとなく話してくれたことがあり、社会に出ていて、人間関係がどうしてもうまくいかないという。

 

よくよく聞いてみると、友人は目の前の人の想いがわかってしまうらしいのだ。しかもその人の深い部分を認識できてしまう。

そして、その事実を本人が普通だと思っていたらしい。

他の人間も、自分と同じように、他人の想いを知ることができていると思っていた。

さらに、自分が思ったことをストレートに口にしてしまうものだから、言われた人間は不機嫌になり、その人間関係は破綻するという事だった。

 

私は、多くの人は他人が何を考えているかなんてわかっていないことと、友人のその能力は、少数派であることを伝えた。

 

その話を聞いた友人は少し驚いていたが、今まで苦労してきたことに納得がいったのか、後からとても感謝された。

 

 

 

そんな友人と話をしていると、私はつい弱気な自分が出て来てしまい、楽しい時間の中でも、ネガティブな発言をすることがあった。

 

そしてある日、私は友人に

「怒っている」と冷静に言われた。

 

 

正直、私は怒っているつもりは全くなかったし、わけがわからなかった。

 

続けて友人の話を聞いていると、気付いたときには私は怒っていた。顔も声も言葉も。

 

その時はとても混乱した。家に着いても落ち着かず、自分のことがよくわからないと思った。ここが肝。(テストに出ます系)

 

 

私は自分の気持ちや感情に蓋をする癖が身に付いてしまっていたので、自分が感じた些細な違和感や負の感情を簡単に無視して、表に出さないことが普通になっていたのだ。本当は怒っているのにもかかわらず。

 

そこに気づいた方がいいよ、と友人が然り気無く教えてくれたという話だ。

 

そしてもうひとつ

大事なことが。

自分の特徴と能力を知るということ。

 

 

この友人に再会できたことは、私にとって本当に幸せなことで、人生のベクトルを変えるための再会だったと思っている。

 

 

 

友人は占いは好きらしいが、スピリチュアルにはあまり興味がなかった。その能力はスピリチュアルそのものというのに。

 

私は友人から、占い(人をみる能力)をしてみた結果として「石」と「やくざの親分」と言われた。

何なのかというと、特性や能力のことなのだそう。

 

 

これを言われたとき、正直わけが分からなかった。

人生色々あったけど、自分はまっとうに生きてきましたよ。真面目で協調性があり、どこでもやっていける人間です。

 

自分のことを、そう思っていた。

それが作られた自分であることに気付いたのは、それから数年後のことだった。

 

 

 

私は動画サイトを通して「マヤ暦」を知った。

マヤ暦とは、グレゴリオ暦が始まる前に使われていた暦で、13のサイクルで1年(260日)を見る暦。

 

それぞれが神様の一部である20の紋章というものがあり、紋章を2つ組み合わせたものと、13の銀河の音があり、それらを組み合わせたものが260通りある。

その中から自分の紋章を知ることができる。

 

私の場合

青い鷲、黄色い人、音4

という紋章と銀河の音の組み合わせだ。

 

詳細な特徴は省略するが、

男性性が強めの特徴がある組み合わせだなと感じる。

 

先見の明があり、鷲なので人や物事を高い位置から見ている。

縛られるのが嫌で、発想も含めて自由人。

こだわりが強く、職人気質で変わり者。

 

簡単にまとめるとそんな所。

こういった特徴を知るうちに、「やくざの親分」「石」を思い出したのだ。

 

「やくざの親分」というのは

組織の中では上に立つことに向いていて、人に指図をする(役割を与える)ことが得意。魂が若い人を育てることに向いている。どんなことでも成し遂げられるパワーを持っている。

 

「石」というのは

漬け物石のように、そこにあって動かない為、安心感を与えられる。

自ら動かなくても、役に立つことができる。

 

そんなことを、友人は書いてくれていた。

マヤ暦の結果と重なる部分を見つけたとき、これを言っていたのか!と驚いたと同時に、

私は本当に自分のことを知らなかったのだなと、自分に対して少し呆れてしまった。

 

これらの特徴を自分で感じ取っていた部分も少しはあったわけだが、生かす場面がなかった。

 

自分を出そうとすると、物事が上手くいかなくなる。

そういう人生だった。

 

しかし、やくざの親分が労働者になっていたわけだから、そう考えたら、当たり前の話でもある。

 

 

 

自分の特徴を知った今、自分の考え方や感じ方にとても納得がいっている。

 

自分はどうしてこんなふうに考えてしまうのだろう、

どうして組織になじめないのだろう、

どうして恋人ができないのだろう

 

自己肯定のできない日々。

 

 

すべては

見た目は弱そうな人間でありながら、中身はしっかりやくざの親分だったからである。

 

 

 

自己肯定が難しいという人には、マヤ暦で自分の紋章と音を知ることをおすすめしたい。

 

マヤ暦の結果が

全然合っていない、

自分とは思えない

 

そんな人こそ、自分の紋章をよく読み解いて頂きたい。

そこに書いてある特性、能力は、本当に自分には無いと言っていいのか。

自分は自分のことをどこまで知っているのか。

自分が知らない自分は、本当にいないのか。

本当の自分の能力を、知ろうとしないだけではないのか。

 

 

 

自分への自問自答は、自分との会話。ぜひ自分のために生きやすくなるための時間を作ってほしい。

 

 

 

 

生きやすさ①

生きづらさを書いてきたので

そろそろ生きやすさについて

書いてみる。

 

 

 

生きやすさとは。

毎朝気持ちよく起きることができ、毎日決まった時間に、仕事に行く自分に納得している。

自分にとって、ちょうど良い仕事量で、報酬・給与にも納得している。

職場のコミュニケーションはスムーズで、人間関係で悩むことは少ない。

自分は家族に理解されていると感じており、家族には感謝しかない。

全然知らない人も、自分の味方だと感じる。

毎日が楽しくて仕方ない。

 

 

こんなところだろうか。

人間として生きていく上で、他人との関係は重要で、切っても完全に切りはずすことはできない。

 

特に職場は、家族よりも他人と長い時間を過ごす。ここで生きづらさを感じると、周りに合わせようと必死になり、結果的に自分のことがわからなくなる。

 

 

自分がわからなくなった人間は

どうすれば生きやすくなるのか。

 

それは

自分を深く知ること。

これが一番重要なことだと思う。

 

 

自分のことを知らなければ、適性がわからない。

大学の時に「自己分析」なんてのをやった記憶があるけれど

私には全然意味がなかった。

人間はそんなに単純ではない。

 

 

これが自分

と思っていた自分は、

実は大人になるまでの成長過程の間に、親や教育によって植え付けられた、考え方や習慣によって作り上げられたものだった。

 

要するに、

・自分のしたいことは、何かのために我慢するのが当たり前

・自分に厳しくするのは当たり前

・人に優しくするのは当たり前

・その場の平和のために、言いたいことは我慢するのが当たり前

・感情は、出さないのが当たり前

・生理痛が酷くても病院に行かないのが当たり前

 

 

などなど、沢山の当たり前を植え付けられて育ったものだから、本当の自分が違和感を感じていたにもかかわらず、それを無視することさえも当たり前となっていた。

 

沸いてくる自分の気持ちに、目を向けることもなければ肯定することもない。

本当の自分という種が芽を出していても、そちらに肥料は一切与えられず、早々に枯れてしまっていたのである。

 

本当の自分を知らないまま、就職活動をすると、とんでもないことになる(過去記事参照)。

 

 

自分を深く知ることで、自然と適切な仕事や人間関係に巡り合える。

 

私が自分を知るきっかけとなったのは、大学時代の友人との再開だった。

 

続く。